昭和時代を代表する大スター!美空ひばり

美空ひばりと山口組

山口組と美空ひばりの結びつきはさらに強くなる出来事がありました。それは大スターという存在ゆえに起きてしまった事故です。昭和32年(1957年)1月13日に美空ひばりは、顔に塩酸をかけられるという事故にあいました。浅草国際劇場での出来事です。塩酸を顔にかけられて、美空ひばりは病院へ緊急搬送されて入院しましたが、塩酸を美空ひばりにかけたのは猛烈なひばりファンの少女でした。

田岡組長とお嬢

塩酸をかけられた美空ひばりは、どんなにか怖い思いをしたことでしょう。この事件をきっかけにして、ますますの庇護を山口組三代目の田岡一雄に求めたとしても、致し方のないことかもしれません。「神戸のおじさん」と美空ひばりが慕うのも当時の興行状況を加味すれば、当たり前のことです。

この時代に地方巡業する時には、山口組などの暴力団の庇護がなければ地方巡業を行うことはとても難しい状況でした。庇護がない状態で興行をすると、まちがいなく地元の暴力団から嫌がらせを受けます。そして嫌がらせがひどい場合には、公演することすらもできなくなってしまうほど興行には地元の暴力団ががっちりとおさえていました。

その当時に、地方巡業に行く時にはかならずとの土地を仕切っている暴力団のところは挨拶にいくのが、興行するうえので慣わしでした。暴力団にとって興行を手がけることは、とても大事な収入源だったからです。もし土地を仕切っている暴力団のところに挨拶に行かなかったとすると、・・・とんでもない辞退になってしまいます。

関西を牛耳っていたのは、山口組だったので東京から関西へ巡業へ行く時に山口組へ挨拶に行ったのも、その当時の慣習を思えば当然のことです。美空ひばりが初めて山口組三代目の田岡一雄と出会ったのは、昭和23年(1948年)の暮れのことでした。三代目田岡組長も、美空ひばりの才能にほれ込んでとっても可愛がったようです。そして塩酸を顔にかけられるという事故があれば、ますます「神戸のおじさん」を頼ったとしても仕方ないことだといえるでしょう。

昭和の名曲

家族ぐるみの付き合い

美空ひばりの自宅は、有名人ゆえに昔は今のように警備会社などなかった時代なので泥棒にも、何回も入られたそうです。泥棒が何回も入ると相談すれば、「神戸のおじさん」は強面の若い衆を数人送り込みます。そして美空ひばりの自宅へ、若い衆を数名常駐させたりとしたりして泥棒対策になりました。そして三代目組長の田岡の息子は、東京の大学へ進学していたことから田岡の息子は美空ひばりを姉のように慕い、ますます家族ぐるみでの付き合いが深まっていきました。

そして美空ひばりの弟も、いつしかどっぷりと付き合いが深くなってしまいます。加藤益夫が本名で小野透という芸名で芸能活動をした時期もありますが、かとう哲也として知られている弟は、いつの間にやら暴力団の世界に入り父親の葬儀の際の花輪に書いた肩書きに「山口組系益田組の舎弟頭」という肩書きを書いたことが決定打になったといえるでしょう。美空ひばりはヤクザの山口組と深い関係があるうえに、実の弟はヤクザだといわれることになりました。

またこの弟がお姉ちゃんの足を引っ張る、典型的な不肖の弟で拳銃不法所持で逮捕されたり、ひばり御殿で賭博をしていたりとひばり御殿に家宅捜査が入ったりもしました。弟は完全にお姉ちゃんの足をひっぱりまくりますが、足をひっぱりまくるのは1970年代のことです、美空ひばりは弟のかとう哲也と共演ということから公演先からキャンセルされたりとかなり大きな影響を受けることになります。そして何回も逮捕されたりしながらも、美空ひばりは不肖の弟を家族だからと擁護する姿勢が世間から反発を受けて、NHK紅白歌合戦も落選したりすることになりますが、昭和20年代30年代と地方巡業をするうえで山口組の庇護を求めるというのも、時代的には仕方ないことだといえるでしょう。まずこの当時に芸能人で暴力団と付き合いがない人などいない時代なので、必要悪として暴力団が存在していた時代です。

お嬢の名曲

ひばりプロダクション設立

三代目山口組組長の田岡一雄の長男は、昭和18年(1943年)生まれなので、6歳年上の美空ひばりを姉さんと慕うのも分かります。そして田岡組長の長男満は、中学までは神戸ですが高校からは慶応義塾へ進学しているため、東京へ出ています。東京でも美空ひばりのファミリーと、ごく親しい付き合いをしているのもわかります。

田岡組長と家族ぐるみの付き合いとなっている美空ひばりと、さらに関係が深まる出来事がありました。昭和33年(1958年)4月1日に、山口組三代目の田岡一雄が、「神戸芸能社」という看板を正式に掲げたことです。合法的で正式な芸能事務所を掲げた「神戸芸能社」に美空ひばりは専属となりました。そして6月に「ひばりプロダクション」を設立していますが、「ひばりプロダクション」は「神戸芸能社」の傘下という形になります。

「ひばりプロダクション」の社長には、美空ひばり本人が社長となり、役員には母喜美枝のほかに、三代目組長の田岡一雄が就任しました。そして婚約相手の小野満も役員に名前を連ねていました。神戸芸能社の傘下として個人事務所の「ひばりプロダクション」を設立した翌月の7月に、美空ひばりは東映と専属契約を結びます。そして東映と専属契約をして「べらんめえ芸者シリーズ」「ひばり捕物帳シリーズ」といった映画作品ですが、歌だけではなく出演した映画作品もヒットしました。

「ひばりプロダクション」を設立したときに、役員の名前がある小野満とは昭和31年(1956年)に婚約します。結局この婚約は解消されますが、不死鳥コンサートでも小野満が率いるバックバンドで指揮を務めていることから、美空ひばりと小野満は結婚することはありませんでしたが、ひとりのミュージシャン小野満と歌手美空ひばりとして音楽を通じた交流はずっと続きます。

昭和時代を代表する大スター!美空ひばり