昭和時代を代表する大スター!美空ひばり

「お嬢」といえば美空ひばり

美空ひばりのことは「お嬢」と呼び始めたのは、美空ひばりの実母でマネージャーのように付き添って当時のマスコミから「一卵性親子」と言われた母親の喜美枝が1953年(昭和28年)頃に「お嬢」と呼び始めて周囲もいつの間にか美空ひばりのことを「お嬢」と呼ぶようになりました。

母親に「お嬢」と呼ばれるようになる頃の1953年には出身地の横浜磯子の高台に、ひばり御殿と呼ばれるプール付き敷地900坪の御殿も完成しています。前年には「リンゴ追分」が戦後最大のヒットとなる70万枚を売り上げるという、ものすごい記録を打ち立てました。「お嬢」と呼ばれることになった時期は、まだ高校生の頃です。映画「お嬢さん社長」に出演した後から、ステージママとして常に娘美空ひばりの近くにいる母親が「お嬢」と呼べば、必然的に周囲も「お嬢」と呼ぶ事になりました。

昭和の名曲

美空ひばりは天性の歌手

美空ひばりの本名は加藤和枝です。横浜市磯子区滝頭出身で、父親は魚屋さんを営む家で昭和12年(1937年)5月29日に誕生しました。ちなみに加藤家の長女で弟がふたりと妹がいます。両親ともに歌が好きで、ひばりが育った家庭にはレコードがある環境で育ちました。

幼い頃から歌うこと好きな子供で、父親が第二次世界大戦で出征することになり、その時の壮行会で戦地へ赴く父親のために「九段の母」を歌います。まだ幼い子供が「九段の母」を歌った歌は、壮行会に集まった人たちは感銘して、目頭をあつくして涙する姿する歌唱力の高さに、母親の喜美枝は娘の歌唱力と人をひきつける可能性を感じます。

そして住んでいる地元の横浜から、ひばりの歌で軍需工場や出征兵士の壮行会といった慰問活動なども開始するようになり、近隣中に「天才少女」として知られるようになりました。

お嬢の名曲

9歳でデビュー

父親が戦地から復員して、私財を投じて「ミソラ楽団」を結成します。そしてミソラ楽団として活動をする時に、芸名は美空和江として初舞台も踏みました。

NHKの番組「素人のど自慢」の予選に昭和21年(1946年)に出場します。この時に歌った歌は『リンゴの唄』でした。ひばりはもちろんのこと、母親の喜美枝も間違いなく合格する。と確信しましたが、驚くことに鐘がなりません。圧倒的な歌唱力ゆえに、審査員から反発を食らったのです。審査員は大人顔負けに歌う小さな子供の姿を見て、「子供が真っ赤なドレスを着て歌うとは、何事だ」とか「子供なのに非教育的」ということで反発したのでしょう。そして歌唱力という点では、上手であることは認めつつもここでも「上手だけど子供らしくない。」という理由を述べました。

そしてその翌年の春に、横浜で開催されたのど自慢大会が終わったあとに、のど自慢大会の審査員の作曲家の古賀政男へ「どうか歌を聞いて欲しい」と、親子で駆けつけ懇願します。そして、ひばりは古賀政男が作曲した「悲しき竹笛」をアカペラで歌います。アカペラで堂々と歌いあげたひばりの姿をみて、子供とは思えない才能と度胸に感心して「もうのど自慢の段階ではなく、すでに立派に出来上がっている。歌手になるならがんばりなさい」と、エールを送りました。

そして9月に九死に一生を得るバス事故にあいます。この事故は横浜の杉田劇場で前座歌手として出演してから、漫談の一行と地方巡業することになり高知県での巡業の時です。乗車していたバスが、崖に転落してそのまま落ちれば間違いなく全員死亡という大事故でしたが、バンパーが1本の桜の木に引っかかり崖からの転落を免れました。崖からの転落は免れていますが、鼻血をだしたまま気絶して瞳孔も開き仮死状態で左手首も切れている状態でしたが、たまたま医者が村にいたため救命措置を受けることができ、事故の起きた晩に無事意識を取戻すことができました。

高地の巡業から横浜の自宅へ戻った時には、父親から「もう歌は辞めさせろ!」と怒鳴られますが「歌を辞めるな死ぬ。」と言い切りそれから先も歌を歌い続ける道をまだ幼いながらも、自らの意思を貫き通す強い一面を出しています。

昭和時代を代表する大スター!美空ひばり