昭和時代を代表する大スター!美空ひばり

京都の名所のひとつ「美空ひばり座」

~京都は私の第ニの故郷なの~ という言葉を残されています。残した方は、昭和を代表する大スターの『美空ひばり』です。あまりにも偉大すぎる存在ゆえに、レジェンドになっている『美空ひばり』。9歳でデビューしてからというもの、9歳とは思えない圧倒的な歌唱力でスター街道を走りました。美空ひばりの歌声で、敗戦後の日本はどれだけ勇気付けられてきたことでしょう。美空ひばりの歌声とともに、日本は見事な戦後からの復興を果たしたので美空ひばりの歌は、日本の昭和史と見事に重なります。

昭和の歌姫といわれる『美空ひばり』が永眠したのは、昭和が幕を閉じる1989年です。昭和64年で時代は平成元年という平成の幕開けでもあります。美空ひばりが永眠しても、ひばりの歌は愛され続けています。そして「美空ひばり」を偲ぶため、ファンが美空ひばりにふれることのできる場所として、東京の目黒には『美空ひばり記念館』があり京都には『美空ひばり座』という形で、美空ひばりにちなんだ品物や衣装などが展示されています。

『美空ひばり座』と京都

現在京都に「美空ひばり座」としてあるのは東映太秦映画村にあります。以前は嵐山にありました。嵐山にオープンしたのは1994年(平成6年)のことで、その時には「美空ひばり座」ではなく、『美空ひばり記念館』としてオープンしました。オープンした1994年の入場者数はなんと100万人を超える入場者数となって、美空ひばりファンの凄さを感じました。京都の嵐山には渡月橋に天龍寺や常寂光寺といった、嵐山を代表する名所がありますが「美空ひばり座」は4年目には300万人を超えた入場者数を突破したことから、嵐山の新名所とも言われたほどです。

2008年(平成20年)に『京都嵐山美空ひばり座』として、リニューアルオープンして、現在は嵐山から東映太秦映画村へと移り『京都太秦美空ひばり座』となりました。気になるのは展示物ですが、東映太秦映画村ということもあって美空ひばりが東映映画に出演していた黄金期の映画館の風景が、とってもリアルに再現されていたりという美空ひばりファンにはたまらない演出の数々です。もちろん展示物には、美空ひばりが出演した時に着用していた衣装はもちろんのこと、その当時の台本なども展示されているので、ファン必見の数々の展示物です。

美空ひばり座の見所

昭和40年代生まれの私としては、「美空ひばり」は歌手のイメージのほうが断然強いです。名曲の「川の流れのように」を歌い上げる美空ひばりであったり、子どもの頃のタキシード姿で歌っているかなり古いVTRだったりと、歌手としての美空ひばりのイメージしかないほどです。

ところがさすが昭和の大スターだけあって、おまけに芸能活動生活もかなり早い9歳で芸能界入りをしているだけあって、東映映画に美空ひばりが出演している数はびっくりの93作品もあります。こんなにも映画に出演していることに驚くばかりですが、「美空ひばり座」では東映映画に出店した全部で93作品の全て作品のポスターが展示されているだけではなく、美空ひばりの名場面もスチール展示もあります。

東京ドームで”こけら落し”公演となる、歌手として初めて東京ドームでコンサートを行い伝説となったステージの『東京ドーム不死鳥コンサート』で、美空ひばりが着用した衣装2点も展示されています。この公演は美空ひばりが命を削ってまで歌いきったという、伝説のコンサートですが歩けるような状態ではない身体でしたが、花道100メートルを歩きコンサートに集まっている沢山の美空ひばりファンたちに、花道を歩きながら手をふることで「美空ひばりは全快!」というアピールをしました。

公演先の福岡で、済世会福岡総合病院に入院した時49歳で、一時は再起不能説まで飛び交った状態を払拭するために力を振り絞った東京ドームでのコンサート。その時に身近にいた美空ひばりの息子は、母親の美空ひばりがコンサートを出来るような身体ではないことを知りコンサートの準備段階で大反対をしますが、東京ドームでのコンサート準備はどんどん進み昭和天皇が崩御してから約1ヵ月後の1989年(昭和63年)2月5日に、東京ドームで不死鳥コンサートが行われました。

病状は決してよくない状態での東京ドームでのコンサート、楽屋は会場に一番近い場所で簡易ベットにドクターも。そして不測の事態に備えて、裏手には救急車も控えている中で楽屋ではベットで横たわってコンサート開始まで控えていた美空ひばり。ギリギリの状態で脚の激痛にも耐えながらも、39曲もの曲を歌いきった美空ひばりとして東京ドームのステージで100メートルの花道を歩いて、ゴールのところで待っていたのは息子でした。倒れこむように息子の下へたどり着き、その姿を見て思わず息子は涙しました。息子の目の涙を見て、美空ひばりは「ママが頑張ったから泣いているの?!」と、息子に尋ねると「ママの衣装がまぶしかったから、目を擦っていたんだ」と照れかくしての答えをしていますが、美空ひばりが命を削って歌いきりステージに立った不死鳥コンサートでの衣装も、「美空ひばり座」で2点展示されています。あの伝説のコンサート衣装を見ることができるなんて、ファンにとってはたまらない喜びになることでしょう。

不死鳥コンサートで着用した黒の豪華なドレスには、美空ひばり不死鳥コンサートでお馴染みの黒の大きな羽飾りが付いたヘッドドレスも展示されています。そして不死鳥コンサートで着用した、真っ赤なドレスは、袖のドレープが分かるようにジュディ・オングの「魅せられて」のようなポージングのマネキンで着用されています。不死鳥コンサートの衣装を見るだけでも、十分に見ごたえがあります。

歌や舞台と同じように、美空ひばりが情熱を傾けた舞台に関しても、美空ひばり芸能生活40周年記念公演の「春秋千姫絵巻’86歌声はひばりと共に」で着用した着物も展示されています。

昭和を代表する美空ひばり

太平洋戦争での敗戦から見事な復興を果たした日本と同じ時期に、芸能界で活躍した美空ひばりは昭和天皇が崩御されてから約半年後に、まだ52歳という若さで亡くなりました。52歳はあまりにも若すぎる年齢ですが、9歳で芸能界入りをしていますが、約2年ほどは無名の存在でした。漫談の一行の前座歌手として地方巡業に出演しながら、歌を歌っていました。

正式にレコードデビューをしたのは11歳の時、コロムビアから「河童ブギウギ」でB面でしたが、レコードデビューを果たしています。今でも美空ひばりの子供時代の映像としてよく目にする、燕尾服にシルクハットで歌う姿は、12歳で映画主演をした「悲しき口笛」での映像です。映画のタイトルと同じタイトルで、「悲しき口笛」で主題歌を歌っていますが、レコードは当時の史上最高記録となる45万枚を売り上げたレコードになります。

美空ひばりが生前出した最後のシングルは、ひばり自身が強くシングル化を迫った「川の流れのように」です。この曲がシングルレコードとして発売されのは、時代が平成になったばかりのことです。昭和天皇が1989年1月7日に崩御したので、昭和は1月7日まででとなり平成元年となった平成の元号が使われたのは1月8日です。美空ひばりの最後のシングル「川の流れのように」が発売されたのは平成元年(1989年)1月11日のことです。それから約半年後に美空ひばりは52歳で永眠となりますが、あまりにも若すぎると惜しまれる52年間という人生ですが決して治療を諦めることなく、美空ひばり生涯最後の言葉とされているのが入院中の順天堂医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります」という言葉だったといいます。

順天堂大学の付属病院に緊急入院したのが、1989年3月15日ですが昭和天皇が崩御してから約1ヵ月後の1989年2月5日に、激しい痛みを持つ脚と慢性肝炎という身体で立っているのが不思議な状態でありながらもコンサートツアーに出ています。この1989年の全国ツアーは「歌は我が命」で、2月6日は福岡サンパレスでの公演でした。この福岡の公園では、チアノーゼ状態になり足元はふらつきながらもなんとか無事に公演を終えました。

周囲が大反対をする中を、美空ひばり自身が強く押し切る形で翌日の小倉でのコンサートを強行します。このステージが美空ひばりの生涯で最後のステージとなりましたが、新幹線や車で福岡から小倉まで移動することに、身体が耐え切れないまでに衰えていたたため移動手段はヘリコプターでの移動となり楽屋に到着するや否や、すぐに横になり楽屋には酸素吸入器と医師が控えている状態で、全部で20曲を歌いきる小倉でのコンサートをやり遂げました。

小倉でコンサートを終えて翌日には、再び検査入院していますがその時に入院したのが2年前に入院した病院と同じく済生会福岡総合病院でした。福岡から東京へ帰京したのは2月下旬のことですが2月下旬に、福岡から東京へ移動するときにも、ヘリコプターを使っての帰京でした。かなり体力が衰えて限界を超えていたのでしょう。それでも美空ひばりは、自分自身の故郷横浜に竣工した「横浜アリーナ」のこけら落し公演の舞台に立つことに対して、並々ならぬ執念を燃やしていました。

立っていることもやっとなほど、新幹線で移動することも無理なほど体力が落ちている身体でありながらも、はってでも舞台に出たいとしていたのには理由があります。公開された美空ひばりの日記には「和也を男にするためにも、はってでも舞台にでたい」 それはこの横浜アリーナでのコンサートが、息子の和也がプロデューサーとしてデビューする予定になっていたからです。息子を男にするために、なんとしてでもはってでも舞台に立つという執念を燃やしていましたが、残念なことにその願いは叶いませでした。

1989年3月15日に順天堂大学付属病院に、緊急入院することになりこの日を最後にして昭和時代常に走り続け歌い続けていた美空ひばりは、全ての仕事をストップしたからです。今までずっとトップの場所で、歌手として昭和時代を引っ張るかのように歌い続けてきた美空ひばりが、闘病生活に入る事になったからです。確固たる治療方法がないという不安の中での闘病生活を過ごし、病室の中で絵筆をとったり闘病生活をおくるなかで、ファンへ向けてのメッセージが録音され5月29日には52歳の誕生日を病室で迎えました。

52歳の誕生日を迎えてから1ヶ月が経つ前の6月24日の午前0時28分に、昭和の歌姫「美空ひばり」は永眠しました。昭和から平成になって昭和を代表する歌手が、昭和の時代と共にこの世を去りました。

昭和時代を代表する大スター!美空ひばり